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心の時代と科学 平成17年4月〜
 

平成17年4月18日掲載

第1回 「『わかる』ということ ― 和歌・俳句の場合」


いわき明星大学 人文学部心理学科 教授 國分 振

 大学では国文学を専攻するつもりだったのに、教養部で聴講した心理学の講義に魅せられて、心理学科に進んでしまった。が、近頃は初心がよみがえったのか、俳句や和歌の理解の心理について考えている。
  わたくしはかつて「木語」という結社に所属していたことがあり、そのころの作に
    梅擬一隅を得て活着す  振
という句がある。主宰の山田みづえ先生はこの句について、わたくしが仙台の郊外に家を新築したことと関連させて清々発展を祈るとその評に書いてくださった。

  自分としては、ただ植木市で買ってきた梅もどきが庭の一隅に根付いたことを客観的に描写したつもりだったが、先生は、わたくしが仙台の一隅に落ち着きそこを根拠に発展するイメージを描かれたのであろう。これは心理学的には「アナロジー」による理解である。「庭の一隅」と「仙台の一隅」、「梅もどき」と「國分振」、「活着」と「新築・新生活スタート」を対応させ、そこに同じ構造を見ているのである。作り手自身も気づいていない意味を読み手が見出している。本人が意識していない意味を他者が見出すということは、絵でも音楽でもあるいはコミュニケーション一般においてあり得ることである。
 
  最近は、和歌の研究でいわれている「融即」ということに興味を持っている。
  「融即」という言葉は、ある出版社の広報誌に載っていた国文学者たちの座談会ではじめて知った。(小林幸夫ほか 2000 座談会「歌ことばの流れー古代から現代へ」リポート笠間 No.41 笠間書院)
  たとえば、藤原克己氏はこう述べている。「(比喩や掛詞を用いた詩や歌では、)比喩するものとされるもののあいだに「融即」が起こっていく。なにか相互浸透が起こっていく・・・。例えば詩がうたわれるときに、メロディーと詩の内容とのあいだにも融即が起こるし、そういう融即現象というのが、なにか芸術一般におこるのではないか・・・。」

  詩とメロディーで、たとえば「荒城の月」などを思い浮かべるときこれはよくわかる気がする。そうするとしかし、意味のわからない外国語の歌の場合はどうなるのだろうか。以前朝日新聞の「ひと」欄に面白い記事が載っていた。それは「すみだ第九を歌う会」の料亭のおかみと芸者衆からなる向島チームが、ドイツ語が覚えられず苦労していた。が「フロイデ シェーネル ゲッテル フンケン・・」を「風呂出で 詩へ寝る 月輝る 粉健」など「漢字入り歌詞」に変換する発案によって記憶力が大飛躍、ドイツ人に「すばらしい発音」とほめられ、ハイデルベルク公演にも大成功したということであった。どういう融即が起こったのかはわからない。

  藤原氏は、次のような例もあげている。

    蝉のこゑきけばかなしな夏衣
     うすくや人のならむと思へば (紀友則)

 「・・・女性の肌を包む衣が薄くなっていくということと、その人の情が薄くなっていくということとの間で、あり得ない融即が起こってしまうから・・・。歌のことばでそういうふうに言われてしまうと、何か本当にその人の着ている着物が薄くなっていくのと同じように、目に見えて、手に触れるように、女の情も薄くなっていくということが起こるような気がしてしまう。詩のことばで、そういうふうに結び付けてしまうと、着物と心というのは全然関係のないものなんですけれど、それが融即して、互いに映り合うような事態が起こってしまう。」

  このような融即が読み手の側に起こってはじめてこの歌が「わかった」ということになるのであろう。「わかる」にもいろいろなレベルがあることがわかる。

 



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平成17年5月12日掲載

第2回 「人と親しくなるためのハードル  −日常生活の中の通過儀礼−」


いわき明星大学 人文学部心理学科 助教授 福島 朋子

 通過儀礼という言葉がある。いじめやシゴキといわないまでも、グループに新しく入ってきた「新人」に対して、「先輩」方は大なり小なり何らかのハードルを与える。このような、集団のなかに個人がなじんでいく過程で乗り越えるべきハードルを通過儀礼と呼ぶ。このハードルは一見いじわるのようにもみえるが、これを乗り越えることで「先輩」方は「新人」を仲間として認め、「新人」もそのグループの一員としての自覚を高める。
  一般に通過儀礼は集団と個人との関係でいわれることが多い。しかし、個人と個人のつきあいのなかにもそれはあるように思う。例えば、私は、ここ数年来ハンセン病を患った人々の生涯に関する研究を続けてきたが、私と彼ら一人ひとりとのかかわりを振り返ってみると、これまでにやはりいくつかのハードルがあったように思えてならない。

 ハンセン病は、現在では治癒可能で非常に伝染しにくい病気であることが分かっているが、かつては不治の病として恐れられ、しかも皮膚に後遺症を残すこともあって、長い間隔離と差別の対象となってきた。最近になってようやく法律的な名誉回復はなされたものの、社会に対する不信は依然根強く、療養施設に住む人のほとんどは、私のような外部の人間に対して容易に心を開いてくれない。
  私が実際にお会いしているのは、社会的な活動が特に活発な人たちで、外部の人間に比較的慣れている方々である。今では時間を忘れて語り合えるような間柄になったのではないかと思うが、それでもなお、私たちの何気ない行動が彼らを傷つけたのではないかと心配になることがある。あるとき私は物を手渡され、そのときに互いの手が直接触れた。直後、たまたま鼻がむずがゆくて私はハンカチを取った。次の瞬間、その人の表情が曇った。差別や偏見による傷の深さを思い知らされた。
  初めて療養所に行ったときのこと。行き通う人はみな怪訝な顔つきで私たちをみつめた。応対してくださった方々はみな親切であったが、その紳士的なふるまいのなかにも警戒している様子がうかがわれた。「新人」の私たちの緊張が彼らに移ったのかもしれないが、「先輩」方とどうお近づきになったらよいか、しばらく途方に暮れたものである。
  この「新人」に対する「先輩」のふるまいが大きく変化したのは、私たちを自宅へ誘ってくれ、共にお茶を飲み、「先輩」の作ってくれた手料理を食べ、お酒を飲みかわした後である。
  これをきっかけとして、私たちは毎回手料理をごちそうになりながら、お互いの苦労や秘密などを語り合い、しだいに世代や性別の差を乗り越えて親しくなっていった。今では、血のつながりこそないものの、心情的に「祖父」「祖母」と呼べるくらいになった。
  今から思うに、差別を受け続けた彼らにとって、同じものを共に飲み食べることは、外部の人間と親しくなるための通過儀礼のような意味を持っていたのだろう。
  こうした私の経験は、何もハンセン病を患った人々だから生じたことではないと思う。実は、日常的な何気ない人とのかかわりのなかに、その後の関係を左右するハードル(通過儀礼)が潜んでいるのではないだろうか。ハードルの存在それ自体にすらなかなか気づきにくいが、私の場合は、たまたま彼らとのかかわりの中で気づくことができたとのだ思う。

 最近「祖父」から一緒に温泉に入って背中を流してくれないかといわれている。目が悪いから大丈夫だよと「祖父」はいうが、本当だろうか。このハードルだけはなかなか越えられそうもない。

 



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平成17年6月13日掲載

第3回 「コンピュータの仮想空間を利用した設計技術」


いわき明星大学 科学技術学部 システムデザイン工学科 専任講師 高橋義考

 近年のコンピュータ、ソフトウェアの発展は目覚しく、コンピュータの仮想空間で製品を試作する技術が確立されつつある。私はこのような設計用ソフトウェアを用いて、ロボットの歩行運動パターンの生成システム開発について研究している。  映画「マトリクス」では主人公が生活していた空間が実はコンピュータの仮想空間であった。このようなSFの世界、非現実の世界が将来実現するのかもしれない。たとえば、海洋研究開発機構が所有する地球シミュレータでは気象や海洋の流れに関する研究が行われている。たくさんのコンピュータを用いて、地球規模の複雑で膨大な量の計算を並列処理により短時間でシミュレーションすることが可能となった。気象現象や海洋現象に加え、固体や柔軟体の運動現象、さまざまな物理現象が効率良く並列計算処理できるようにモデル化できれば、映画のような世界も夢ではなくなるでしょう。

 仮想空間でシミュレーションし思考錯誤する設計手法は、私たちの身のまわりにある製品開発に実際に利用されている。具体的には試作段階での製品の強度解析やメカニズムの動作確認に利用されている。研究としても宇宙構造物の運動解析、機械構造物の地震応答解析に利用されており、実験による検証が困難な現象確認に威力を発揮している。例えば、衛星が宇宙へ打ち上げられた後の搭載アンテナ展開メカニズムの動作確認は、無重力状態でシステムの動作確認を行わなければならず、シミュレーションによる検証が重要な役割を果たしている。このようにコンピュータの仮想空間でのシミュレーション技術は製品開発における重要なツールとなっている。

 大学ではこのような解析ソフトウェアを用いて、授業や卒業研究の指導を行っている。設計用で数百万円するソフトウェアが自由に使え、学生にとっては恵まれた環境にある。しかし、高価なソフトウェアも学生にとってはゲームソフトの一種に見えるようである。実際、パソコンの画面に表示されるアニメーションはゲームそのものである。学生は私が目を離すと、設計用ソフトウェアで仮想空間にビリヤード台やボーリングのレーンを作りゲームを楽しんでいる。そのような目的のためのソフトウェアではないので、これは注意しなければと思うのであるが、声をかけられずにいる。私が現在行っている研究も学生の遊びに似ていると思ったからである。私は現在、このソフトウェアを用いてサッカー競技用のロボット試作を行っている。市販されている二足歩行ロボットをどのように改良したらボールを強く蹴れるか、またはキーパー用のロボットにするにはどのような改良が必要かを、コンピュータの仮想空間で試行錯誤している。弁解であるが、このような競技大会が実際に行われており、世界40カ国の大学などで研究が行われている。1997年から行われているRoboCup世界大会がそれである。このプロジェクトでは2050年までにヒューマノイド型ロボットで、人間のサッカーの世界チャンピオンに公式ルールで勝利することを目標に掲げている。冗談みたいな話であるが、近年の科学技術の発展を目の当たりにすると、可能性は否定できないと思うのである。このようなプロジェクトはロボット工学と人工知能の発展が目的ではあるが、理屈抜きにして見てみたいし、自分でもチャレンジしたいと、モニターの中のロボットを見ながら強く思うのである。

  
    コンピュータの仮想空間でロボットがボールを蹴る様子

 



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平成17年7月28日掲載

第4回 「道とは何か」


いわき明星大学人文学部 現代社会学科 助教授 叢小榕

 春秋(紀元前七七〇〜前四七六年)戦国(紀元前四七五〜前二二一年)時代、いまの中国の地において、諸国が覇を争い、人材を求めるなかで、諸子百家と称されるさまざまな思想家や理論体系が現れ、中国思想は最盛期を迎えた。諸子百家のなかでも、多くの理論体系の根源となっているのが、道家の思想である。これは、かつて儒家の創始者の孔子が道家の創始者の老子に教えを請うたといった古代文献の記述や、法家の思想を集大成した韓非子がその著で、老子の書を解説しているなどの事実によっても裏付けられている。
  道とは何か。老子は道について次にように述べている。
「混沌とした物が天地に先立って生まれ、音もせず、形もなく、独立してかわらず、くりかえしてやまず、天地の本源となりうるものである。わたしはその名を知らないが、強いてそれを『道』と名づける」(『老子』第二十五章)
  老子の理論をさらに展開したのが荘子である。荘子は「道というものは、確実に存在していながら、何の作為をすることもなく、形も見えない。それは伝えられるものだが、言い表すことはできない。得られるものだが、目には見えない。それは自らを根源とし、まだ天地がなかったむかしからすでに存在している」(『荘子』内篇・大宗師)という。
  天地万物は、無がなかったことすらまだなかった以前の状態から無がなかった状態へ、無がなかった状態から無の状態へ、無の状態から有が生まれる。この無と有をつかさどるのが道である。要するに、道とは存在しながら、形として見えず、物として手に入れることのできない自然の法則なのである。
  道家は無為自然、つまり、自然の法則に従うことを主張する。「鶴は毎日水浴びしなくても白いし、烏は毎日墨で染めなくても黒い」(『荘子』外篇・天運)という荘子の言葉によって示されたように、道家は人為をナンセンスと見ているのである。
  その無為自然の主張は道家の死生観にもよく現れている。荘子は生死を自然の変化として、次のように述べている。
「死と生とは天命である。それは自然の法則にしたがって、夜と朝が常にくりかえすのと同じものである。人間の力ではどうすることもできないものが存在する。これが自然界の本来の姿である」(『荘子』内篇・大宗師)
  数千年にわたって、人類は不老不死の方法を求めてきた。しかし、その夢がいまだに実現していない。なぜなら、人間の力で自然の変化を止めようとするものだからである。
  また、欲望を人間の苦しみや悩みの根源だと道家は考えている。かつて、老子は欲望と苦しみや悩みとの関係について次のように孔子に語った。
「富を求めるものは、利益を人に譲ることができず、地位を求めるものは、名誉を人に譲ることができず、権力に執着するものは、権限を人に与えることができない。それらを持っているときは、失いはしないかとおびえ、失うと悲しみにくれる」(『荘子』外篇・天運)
  道家を代表する一人である列子も、人は長寿、名誉、地位、財貨のため、悪魔をおそれ、他人をおそれ、権威をおそれ、刑罰をおそれるということを『列子』の「楊朱」で指摘している。
  かつてのゼミで、道家の思想に強く共感したある学生は「これから、ジュースを飲むのをやめて水を飲むことにします」と言った。なんの変哲もないその言葉は、欲望と生存のための本能を区別するための一つの尺度を示し、欲望によって成り立っているともいえるこの世界に生きながら、欲望放棄の第一歩を踏み出す勇気を与えてくれたような気がする。

 



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平成17年8月27日掲載

第5回 「還暦を迎えて思うこと」


いわき明星大学 科学技術学部 システムデザイン工学科 教授 橋本眞也

1.2つの出会い
  写真のTシャツは、昨年末、ヒューストン大学のSimon C. Moss教授が古希を向かえた記念品として送ってくれたものである。
  三十数年前、私が東北大学大学院に入ったばかりで、電子顕微鏡を相手に悪戦苦闘を繰り返していた夏のことであった。研究室の助教授から「面白い論文が出ているぞ」と声を掛けられた。それは、Moss博士が2元合金からのX線散漫散乱強度式として、このTシャツにプリントされた公式を導いた論文であった。数式の美しさもさることながら、「高温状態には、素性がそのまま顕れる」という自然の理を教えられ、私は「無秩序」の魅力に引きずり込まれた。

  還暦の年を迎えてしみじみ思うことであるが、人の人生を決定付ける転機は確かにある。それをもう一つだけ上げろと言われれば、この公式との出会いのときを遡る、北海道大学での弓道部活動になろう。高畠太郎師範の小笠原流礼法と近藤愛親師範の射技の指導は、若かりし日の私にとって非常に鮮烈であった。このとき、@ 自身の間(ま)、A 相互の間、B 全体の間の3つの「間」を学んだ。「自身の間」というのは、他者との関係から切り離された、個体そのものの運動である。「相互の間」は、自分と向こう三軒両隣くらいの関係を指す。そして「全体の間」は、「友だちの友だちは、みな友だちだ」といって地球の果てまで通じ合うことである。趣味の仲間が集まると、以心伝心で全体が一斉に整列する。物理学においてもこれと同様に「協力現象」と呼ばれる効果があり、結晶のできる原理となり、永久磁石ができる原理となる。

2.2つの経験の同一性
  TシャツのIKCM(k)の添え字KCMはKrivoglaz、Clapp、Mossの3氏がこの式の導出に寄与したことを示したものである。この強度は、波長の逆数である「波数ベクトル」と呼ばれる変数kの関数で、2元合金試料の構造にkで代表される波構造があるかないか、あるいは、強いか弱いかを表す量である。たとえば、合金の構成元素をA原子、B原子とし、それが距離aだけ隔ててAB|AB|AB|A...と交互に並んだ場合を考えてみる。ABが繰り返しの単位であるから波長は2aであり、繰り返し方向に1/(2a)の大きさを持つベクトル変数kに対してI(k)は大きな値を取ることになる。
  式の右辺は、厳密には、分母の第2項の大きさが1よりきわめて小さい場合に成り立ち、I(k)=1-2c(1-cV (k)...のように書いても良いものである。こう言うより、この多項式をPade近似という手法によってTシャツのような分数形に無理やり書き換えたものであると言ったほうが当たっている。
  こうして、温度kT (=1/β)が、負であるV (k)の大きさよりも遥かに大きい場合、V (k)がそのまま合金構造を決める形になっていることがよくわかる。私にとって、このことは大きな衝撃であった。V(k)は、波数kの波構造をつくろうとするA-B原子間の「相互作用」の大きさを与えるものであり、弓道の「相互の間」そのものであることを思い出させる。
  ここで、仮想的な想像をしてみる。Tシャツの式を見ながら、β(1/T )をどんどん大きくしていくと、ある波数kのところで右辺の分母は0になって、I (k)は無限大になってしまう。すなわち、合金構造は、温度Tを下げると、ある温度で特定の波数kに支配されてしまうことが予測される。この式のような分数式に書くPade近似法は、この外にもいろいろなところで相変態の説明に使われる。たとえば、鉄が永久磁石になることを説明するのにもこの種の式を使うことができる。そして、私独特の発想であるが、弓道家が求める「全体の間」の実現にもこの自発的変態が存在すべきこと予言できる。
 
3.教育のあり方
  現在は、価値観が多様化した社会であると言われる。これは、無秩序状態にあることを意味する。秩序化や無秩序化は、先の例のように、ある温度を境にして自然に、すなわち、自発的に、しかも急激に変るものである。ここで主役を演じるのは「相互の間」の性質である。社会においても個人の運動よりも、人と人との関係が表に現れて問題を引き起こす。もちろん、この相互作用は、個体が、たとえば、磁気双極子であるか、電荷であるかによって決まってくるものであるが、個体1個のみの自由な運動は、いずれであっても大差のないものであり、相互作用を通してはじめて個性を現すのである。
  冷戦の時代を乗り越えて、平和に転じるかに見えた世界であるが、これは、秩序状態から高温の無秩序状態に転じたことに似て、いま、「相互の間」だけが露骨に見え隠れしている。人間間の、あるいは、国家間のなまの利害や残酷さが社会の表に現れているのが現在であり、無秩序状態の特徴が表面化していると言ってもよい。
  さて、教育に目を向ければ、このような時代に、学生に対して画一的で、一方的な拘束、少し洒落て、校則は通じない。一個人を刺激して、そうした個体が、好ましい「相互の間」を持てるように教育することが大切であり、それができれば、環境温度を少し下げるだけで自発的な分極を学生同士が作り上げる。これが自然であり、これを教育の原理として欲しいと祈る。
  二十歳を迎えて間もない日の感激について縷々述べたが、還暦を迎えてますます切実なものに感じている。

 



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平成17年9月23日掲載

第6回 「たかがかけっこ、されど・・・」


いわき明星大学人文学部 現代社会学科 助教授 五十嵐幸一

 スポーツの秋、と言えば運動会。市内の各地域でも様々なイベントが行われている。運動会と言えば、花形種目は短距離走、いわゆるかけっこである。筆者も小学生の頃、リレーの選手として注目を浴びたことを思い出す。今、陸上競技にたずさわっているのは、やはり、この時分の経験が影響しているのであろう。
  運動会と言えば、この夏、世界的な大運動会がヘルシンキで開催された。かく言う世界陸上ヘルシンキ大会である。時差の為、テレビの放映時間が深夜(早朝?)であり、8月の上旬は夜更かしの日々が続いた。そのせいかどうか、因果関係は不明であるが、パソコンに向かっている今の筆者は、なんとなく体調不良気味である。

  さて、その世界陸上の日本選手の結果はどうかというと、前評判が良かった割には、結果的に銅メダル2個という結果に終わり、少々期待はずれであった感は否めない。特に男子短距離陣は男子400mリレーで8位であり、前回の4位から順位を落とした。また、男子1600mリレーでは予選で失格するというすっきりしない結果であった。
  そんな日本短距離界の中で気を吐いたのは男子400mハードルで銅メダルを獲得した為末大選手である。準決勝4位とギリギリで決勝に残った選手が銅メダルを獲得すると誰が思ったであろうか。それは、必ずメダルととるという固い意志がもたらした一種の奇蹟に近い出来事であった。
  前々回のエドモントン大会で銅メダルを獲得したものの、一時期低迷し、父親も亡くすという不幸からはい上がってきた彼は「メダルへの執念」という言葉を具現化したと言っても過言ではない。それが最も良く現れたのが、決勝のレースであった。外側のレーンで前半積極的にとばすレース展開。最後はバテバテになることは目に見えている。ラストの直線で抜かれながらも、最後の最後まであきらめなかった。転倒しながらのゴール。結果的にはそれが功を奏し銅メダルにつながった。4位の選手とはコンマ何秒かの差しかない。距離にして数十センチである。倒れ込んでゴールしたか、天を仰いでゴールしたかの差が、その後の一生を左右することもあるのである。

  一方、男子200mの末續慎吾選手は前回の2003年パリ大会で、この種目の銅メダリストである。今流行の「なんば」ブームの火付け役となった人物である。今回は200mに種目を絞っての出場であった。
  しかし、予選のレースを見て、彼のファイナリストへの道はないと直感的に思った。周りをキョロキョロ見回しながらのレース。「余裕を持ってのゴール」、とテレビ解説者はコメントしたが、私は個人的にそのようなレースをする競技者はあまり好きではない。好き嫌いの問題ではないが、少なくても真剣勝負をしているという態度ではなかったと思う。結果的に予感は的中し、準決勝で敗退した。ナンバ走法の威力もここまでか?
  同じ過去のメダリストでもヘルシンキ大会にかける意気込みは全く違った。それは目指すもののちがいが現れたのではないだろうか。為末選手は一言で言えば亡き父へ捧げるメダルであっただろう。一方の末續選手については、今回の大会をどのように位置付けていたのかが、テレビの画面を通しては伝わってこなかった。

  近年、スポーツと科学は切っても切れない関係にある。ほんの10年前までスポーツ界の常識であったことが、科学的に検証すると一夜のうちに非常識になったりする。我々が小学生の頃は、「運動中はバテるから水を飲むな」とよく言われた。ところが今や、運動中は水を飲むことが常識となっている。運動技術にしてもそうである。速く走るための方法として「腿を高く上げなさい」と指導されてきた人も多いと思うが、今や逆に「腿を速く下ろしなさい」という指導に変わってきている。「なんば」も然り、昔の人の歩行がたちまち流行の歩き方になってしまうのだから、情報の影響力のすごさを再認識させられる。
  しかし、スポーツ界の常識、技術がいくら変わろうとも、スポーツを行っているのは心ある人間であることに変わりはない。競技に対する気持ちは人によって様々であろうが、「自己実現」という一点は昔も今も変わることはないであろうし、変わって欲しくないところである。

  筆者は時々陸上競技を行っている選手に「何のために競技を行うのか」と問うことがあるが、明確に答えられる者は少ない。大半の者は、「何となく」競技を行っていることが多い。それは、自分の目標が明確になっていないことと、自分の自分自身に対するイメージが乏しいことが影響していると思われる。「どうせ自分は・・・だから出来ない」という理由が先に来る。出来ない理由を先に持ってくることによって、批判を回避しようとするのである。
  100mをやっていた経験から言えることは、試合の場から逃げ出したい自分と戦い、勝利した者だけが自信を持ってスタートラインに着くことが出来のである。自分と戦う中で、唯一味方になるのが、「自分はこれだけ練習したんだ」という経験、それだけである。「どうせ自分は・・・」という者に対しては、そんなこと言う暇があるなら練習しなさいと言うアドバイスを送ることにしている。がむしゃらに練習することによって得られた経験は、何となくスポーツ科学の本を眺めているよりも有益である。
  スポーツ科学が発展してくると経験論を否定的に考えることも少なくない。しかし、その人にとって経験は一番確かな情報であり、選手同士、あるいは選手とコーチの共通言語である。経験の積み重ねによって、いろいろな場面に対応することが出来るし、それが、その人自身の人間としての幅を広げることにもなる。為末選手が世界陸上の決勝で自信を持ってスタートラインに着けたのは、世界各地でいろいろなレースに出ていた経験があったからであろう。
  たかが運動会であっても、かけっこで一番になった経験やうれしい気持ちは大事にしていきたいものである。もしかするとそれは、オリンピック選手への第一歩かも知れない。

 



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平成17年10月26日掲載

第7回 「ユビキタス社会のもたらすもの 〜高度情報化社会の光と影〜」


いわき明星大学科学技術学部 電子情報学科 助教授 中尾 剛

 インターネットの普及率の上昇は目覚しく、情報通信白書によると平成16年末でインターネットの人口普及率は62%を超えた。インターネットは中央と地方の情報格差を少なくし、インターネットがあれば、情報収集、ショッピング、電子メール、ネットバンキング、弁当の注文などなど、トイレ以外は事足りてしまうようになった。

 数年前から「ユビキタスコンピューティング(ubiquitous computing)」という言葉を耳にする。「ユビキタス」とは、「同時に、どこにでもあること」という意味で、「ユビキタスコンピューティング」とは「いつでもどこでも、利用者が意識せずとも、情報通信技術を活用できる環境のこと」(三省堂「デイリー新語辞典」より)である。身の回りを見ると、確かにいたるところにコンピュータが存在する。キーボードとディスプレイがあるものだけがコンピュータではない。カーナビから炊飯器まで、身近な家電製品にも「マイコン」という名のコンピュータが搭載されている。最近では、冷蔵庫がインターネットにつながり、保管している食材の情報を外出先から確認できる。また、電気ポットまでもが携帯電話回線と接続され、一人暮らしのお年寄りの安否の確認にも使われるようになった。これなら、コンピュータアレルギーの人も家電製品として使えるだろう。

 ただ、ユビキタス社会はよいことばかりではない。ユビキタス社会で得られた個人データは使い方を間違えると恐ろしいことになる。高速道路のETC、自動改札機、クレジットカードなど、個人の行動はすべてデータという形で記録されている。例えば、道路にナンバー読取機が設置されているが、自動車のナンバープレート1つを記憶するためには、6バイト(アルファベットで6文字分の容量)もあれば十分である。家電量販店では、250Gバイト(2500億バイト)のハードディスクが1万円少しで売られている。記憶できるナンバーの数は、単純に「2500億÷6」である。気の遠くなるような台数のナンバーを安価に半永久的に記録できる。これら個人情報を悪用や目的外に使用されないよう記録されたデータの厳重な管理が必要となる。
 
  また、ユビキタス社会はコミュニケーションを奪うことにもなる。ある雑誌にこんな記事が載っていた。「高速道路はETCの普及により、渋滞は少なくなり便利にはなった。ただ、料金所の人と交わす会話がないのは寂しい限りである。」 確かに「お疲れ様でした。お気をつけて」という料金所の人の方言は、「遠くまで来たな」とか「いわきに戻ってきたな」ということを感じさせてくれる。
 
  電子メールもそうである。電子メールは一瞬で相手に届き、すぐに返事が出せる。短文であれば、あたかも会話をしているような錯覚に陥る。相手が目の前にいると、表情を見ながら言葉も選ぶであろう。しかし、電子メールの会話は、絵文字などが入っていても、所詮機械が表示する無機質な文字を使った会話である。相手の表情が見えない会話は、ついつい相手の気持ちを考えるということを忘れてしまう。相手を追い詰めてしまい、修復不可能な関係になってしまうことも少なくない。

 人は感情を表現でき、相手に伝えることのできる動物である。また、相手の感情を理解することのできる動物でもある。もう一度、地球に生きる動物として、人と人のコミュニケーションというものを考える時期に来ているのではないだろうか。高度情報化社会で人としての自分を見失わないようにすることも重要である。


こんなこともできる?(ご利用は計画的に)

 



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平成17年12月2日掲載

第8回 「現代社会における表現・対話の価値」


いわき明星大学人文学部 表現文化学科 助教授 大橋純一

 日本では、その風土・文化とも関わって、古くから“雄弁は銀、沈黙は金”であることが暗黙の了解とされてきた。そこに暮らす人々は、“口は災いのもと”であると同時に“キジも鳴かずば撃たれまい”ことを経験的に知っている。
  そのような社会では、何よりも寡黙が美徳とされる。まさに“以心伝心”。意図することが黙っていながらに先方へと伝わることが理想となる。また時には、曖昧な物言いを主体とし、その言外(行間)に込められた意味を先方が腹芸的に酌み取ってくれることが理想となる。
  よって、日本人においては、来客者の「暑いですねえ。」という何気ない問いかけが、文字通り暑さへの共感を求めた発話であるとは見なされない。その発せられた言葉の真意をじっくりと見きわめ忖度した上で、ある人は慌ててエアコンのスイッチを入れるかもしれない。またある人はすっと立ち上がり、氷入りの冷たいジュースを用意し始めるかもしれない。そこに正規のコミュニケーションは何一つ成立していないのだが、このあうんの呼吸こそが会話の当事者間にあっては重要であり、意義深いのである。

  こうした対話の在り方は、すなわち対人配慮のコミュニケーションに他ならず、その自己を押し殺した謙虚さ、奥ゆかしさが、あたかも日本人気質の代名詞であるかのように言われ続けてきた。そのことはまた、実際に波風の立たない、穏便な人間関係を構築するたための潤滑油ともなってきた。
  しかし、その背景には、言葉への深い理解、またそうであるからこその畏怖の念が表裏一体として存在し続けてきたことを忘れてはならない。人々は、言葉の持つ力の強大なことを自得的に理解しているが為に寡黙となり、沈黙しさえするのである。
  ところが、昨今の言語社会を改めて見つめ直してみると、そのような寡黙や沈黙が少々違った意味で具現化してきている印象を持つ。その印象がある一定の真実を捉えているとするならば、大変ゆゆしきことだと言わなければならない。
  例えば大学という小さなコミュニティーの中でも、その傾向は顕著にみとめられる。ディベートを本質とする演習時において、ある学生は、提示された課題を前にひたすら沈黙を貫き通す。これなどは、“沈黙は金”の格言にかこつけた単なる発話意欲の怠慢である。ことは授業・演習内にとどまらない。うまく自己表現ができず、大学生活やそこでの対人関係自体に苦慮するといったことが、ここ数年来、格段に増えてきたように見受けられる。

  21世紀を迎え、人間社会は、生活空間・生活環境を不特定多数で共有し共生していくことがより強く求められる時代になってきた。立場や価値観を異にする者どうしが、そこに自己の存在をしっかりと確立しつつ、互いの意志をも正しく理解し合うことが求められる時代となってきた。裏を返せば“沈黙”は誤解を生み、“寡黙”は社交性ないしは協調性の欠如ととられかねない時代ということである。黙っていては何も伝わらないのである。

  今や、国際社会においてどう生き抜いていくかがごく自然にかつ真剣に語られる時代である。折しも、日朝交渉や日中・日韓問題等で、“対話”という用語が地球的規模のキーワードとして定着してきつつもある。そうした中で、私達は、古式ゆかしい日本人としての感性を大切にしながらも、現実的な今に適応していかなければならない。そのためにも、言葉の持つ力を再認識し自己表現すること、互いが言葉で十全に伝え合い理解し合うことに積極的な意味を見出していきたいものである。

 



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平成18年1月19日掲載

第9回 「万巻の書の記憶」


いわき明星大学図書館長・科学技術学部電子情報学科 教授 岩本振部

 定年前の一年間,大学図書館長を務めることになりました。大学の図書館と言えば,やはり本郷の東京大学図書館をまず思い出します。この建物は関東大震災の後に米国のロックフェラー財団の援助を受けて建設されました。正面玄関前の広場に円形の池があって,その真ん中に塔の相輪部分が立っています。普通は九輪ですが,ここのは八輪で,奈良に東西両塔が現存する当麻寺のものと同形です。

  漱石の「三四郎」には,大学図書館がさまざまな叙景や逸話で登場しています。当時既に古色蒼然と積上げられていた万巻の書のいずれにも,かつて誰かが目を通した形跡があることに三四郎は驚いています。「ヘーゲルの伯林大学で哲学を講じたる時,ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。」(ドイツの大哲学者ヘーゲルがベルリン大学で講義するとき,彼には自分の哲学を売りこもうとする意思は全くなかった。)で始まる一見格調の高い,鉛筆で書き込まれた落書きを発見したりもしています。
  日本青春小説最高傑作の一つであるこの「三四郎」は二十世紀初頭に書かれており,数社から文庫版も出ています。よほど博識な読者でない限り,約百年前に新聞連載されたこの小説に書かれている事物の知識をすべて心得ているわけにはいかないでしょう。ですから,後年に出版された文庫版には注釈がついています。それは時代と共に増加していきます。手許にある岩波文庫の1960年改訂の1986年版には,わずか15項目の注釈しかありませんが,1990年改訂の2004年版では,なんと183項目にまで増えています。後年にはどのような項目が注釈の対象となり,それにどのような説明があるか,そんなことを調べるのは,文学的にも社会学的にも面白いと思います。では,どのように調べるのでしょうか。以前なら,メモ帳に書き抜く,あるいはコピーをとって切り貼りして整理するなど,紙を多量に使い,時間と手間をかけるしかありませんでした。

  二十世紀後半から,自然科学や工学技術の発展は電子計算機の進歩に支えられてきました。医学や農学もそうでした。経済学や社会学でも,そして行政の能率を高めるのにも,電子計算機が使われています。アニメーションを含めた文化芸術の創造活動にも活用されています。これらの電算機利用技術は,総括してIT(情報技術)と言われています。
  古色蒼然たる万巻の書を抱えた図書館は,このような電算機文明の対極にあるように見えますが,それは大きな誤解です。現在,少なくとも2次元媒体上の記録(要するに紙や膜や壁面などに記された文字絵画の類)ならば,かなりの高忠実度でしかるべき電算機系記録媒体に複写(入力)できます。それらを電算機で検索し,読出し,編集する技術は既に実用化の域に達しています。問題は入力に要する手間と費用でしょう。
  情報技術などと言われる前から,文献複写は図書館内外で広く行われてきました。なまじ歴史があるため,文献複写への情報技術導入はやや立ち遅れているように見受けられます。言語音声の自動翻訳まで試行されている時代とは言え,全ページ高速度連続電子複写装置の実用化にはまだ程遠いようです。次々とページをめくる操作を人手に頼るか自動化できるかが問題です。

  人類の文化遺産を維持管理して後世に伝える使命は,新技術開発や経済効率の向上などとは次元が異なり,現在生きている人間の義務であります。図書館,博物館,美術館などの営みは,まさにそのためにあるのです。図書館で言えば,誰かが必ず目を通している万巻の書の記憶を一個人の脳内に留めず,公開可能な情報技術記録媒体に写し替えることが当世に求められている作業でありましょう。

 




心の時代と科学  
 

平成18年3月22日掲載

第10回 「電子回路 部分理解は全体ではない」


いわき明星大学科学技術学部 電子情報学科 専任講師 大表良一

1.はじめに
 1948年にショックレー達がトランジスタを発明してから60年近くたった今、私たちの身の回りの電気製品でトランジスタの恩恵を受けていないものはほとんどありません。パソコンや携帯電話はもとより、電気冷蔵庫やエアコンなどにもトランジスタがICという形で組み込まれています。パソコンに使用されているプロセッサには何百万個ものトランジスタが使用されています。このような複雑なものを作れるようになった背景を見てみましょう。

2.回路設計と等価回路の登場
  トランジスタを使った製品を作るとき、どのようなトランジスタをどのくらい使って、どのような回路構成にすればよいかを決めることを、設計するといいます。また、設計した回路がどのような性能になるのかを予測し、それでよいかどうかも判断しなければなりません。これらを、なるべく実験せずにやりたいというのは、誰でも思うものです。作っては見たものの、動作が不安定であったり、必要な性能を発揮できなかったりといったことで、何度も作り直しをすれば、時間や部品がもったいないですね。
 まず、トランジスタの電気特性を測り図で表し、図的に設計することが行われました。しかし、できれば解析的に結果を求めたいという要求が強くなりました。そこで、登場したのが等価回路です。図上部はT型等価回路(高周波用)であり、図中のCe,Ccをとると、低周波用になります。図下部はハイブリッドπ型等価回路です。このほかにも色々な等価回路が提案され利用されています。
 これと抵抗、コンデンサやコイルなどのそのほかの素子を加え、回路にし、オームの法則やこれを交流にも適用できるよう拡張した法則を用い、回路方程式を記述し、解を求めることで、その回路の性能などを求めることができます。どのような等価回路を選ぶかは技術者の責任ですが、目的とする製品の機能・性能から選ぶことになります。

3.電子回路シミュレータへ 
 トランジスタの数が百を超えるような回路を扱おうとするともはや人間の手に負えなくなってしまいます。そこで、全体をいくつかの部分に分け、部分回路だけを等価回路を用いて解析や設計する方式がとられました。しかし、コンピュータが普及するとともに、こうした作業をコンピュータに手伝ってもらえるようになりました。これにより扱えるトランジスタの数が格段に多くなりました。
 今では、ディスプレーに、マウスやキーボードを使って回路図を描いてやると、後はコンピュータが一切を引き受けてくれます。回路中のどこかの点の電圧やそこを流れる電流の値や波形を知りたければ、プローブの形をしたアイコンをマウスでその点にドラッグすれば、波形がウィンドウに表示されます。こうなると等価回路はコンピュータプログラム中に取り込まれた形になり、表面にはでなくなります。このようなプログラムを電子回路シミュレータと呼んでいます。パソコンに使用されているプロセッサに代表されるディジタル素子の設計では、設計用の人工言語が開発され、素子の機能や構造を言語で記述し、回路を自動生成することが出来るようにまでなっています。
 コンピュータ中にモデルを実現し、それを用いて求めた結果と、実際とを比較検討し、モデルの完成度を高めてきた結果ここまでこられたのです。

4.最後に
  等価回路やモデルを用いて対象を理解しようとすることは、電子工学以外のところでも多くの成果を人間にもたらしています。しかし、等価回路やモデルはいつでもどのような条件でも成立するわけではないことを、常に忘れてはいけません。また、部分を正確に理解できたからといって全体をも理解できたと短絡的に思ってもいけません。心したいと思います。


トランジスタの等価回路例
(上:T型等価回路、下:ハイブリッドπ型等価回路)

 


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