いわき明星大学2001年度後期 宗教社会学講義 木曜日4限 講師: 村上守行

日本宗教の史料

1 本居宣長の神の定義

「迦微(かみ)と申す名義は未ダ思ヒ得ず...古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐ス御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり」(『古事記伝』)

2 魏志倭人伝

人は帯方郡(今のソウル付近)の東南にあたる大海の中にあり、山島が集まって国やムラを構成している。もともと、百余国に分かれていた。漢時代に朝見する者があり、現在、(魏の)使者が通じている所は三十国である。

帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓 国(馬韓?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。

始めて大海をわたること千余里で対馬に至る。其の長官を卑狗(ひこ)といい、副官を卑奴毋離(ひなもり)という。この地の人々が住んで居る所は孤島であり、周囲四百余里しかない。土地は山ばかりで険しく、深林も多く、道路は獣道のようである。千戸あまりの人口。良い田がなく、 海産物を食べて生活し、船で南北(韓国や北九州?)にのりだし交易を行っている。また大海を渡ると千余里で、壱岐に到達する。この海を瀚海(かんかい:現在の玄界灘)という。長官を(対馬と)同じく卑狗といい、副官を卑奴毋離という。周囲は三百里ほど。竹木や草むらが多く、三千戸程の家がある。少し田畑があるが、これだけでは生活できず、(対馬と)同様に韓国・北九州と交易している。

  さらに大海を渡る事千里余りで末盧国(今の佐賀県唐津市・東松浦郡)に到達する。四千余戸あり、 山際や海岸に沿って家が建っている。草木が生い茂っていて、歩くとき前の人が見えない位である。好んで魚貝類を捕え、海の浅い所深い所関係無しに、潜水してこれらを捕らえる。

東南へ陸を行く事五百里で伊都国(今の福岡県糸島郡)に到る。長官を爾支といい、副官を泄謨觚・柄渠觚という。千戸余りの人々が住んでおり代々王がいるが、皆女王国に統属している。帯方郡の使者が常駐している所である。

そこから東南の方角へ行くと奴国(今の博多)に至る。距離は百里である。長官をジ馬觚といい、副官を卑奴毋離という。二万余戸がある。東の方角へ行くと、不弥国に至る。百里である。長官を多模といい、副官を卑奴毋離という。千余戸がある。

南へ行くと、投馬国に至る。水行で二十日かかる。長官を弥弥といい、副官を弥弥那利という。五万余戸ばかりの人口である。

南へ行くと、邪馬台国に到達する。女王の都がある所である、水行十日(と/又はの二説あり。)陸行一月である。長官を伊支馬といい、次官を弥馬升とい い、次官を弥馬獲支といい、次官を奴佳タイという。七万余戸ばかりの人口である。

女王国より北の方角についてはその戸数・道里は記載できるが、その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。次に斯馬国があり、次に已百支国あり、次に伊邪国あり、次に都支国あり、次に弥奴国あり、次に好古都国あり、次に不呼国あり、次に姐奴国あり、次に対蘇国あり、次に蘇奴国あり、次に呼邑国あり、次に華奴蘇奴国あり、次に鬼国あり、次に為吾国あり、次に鬼奴国あり、次に邪馬国あり、次に躬臣国あり、次に巴利国あり、次に支惟国あり、次に烏奴国あり、次に奴国あり。これが女王の(権力の)尽きる所である。

その南に狗奴国があり(今の熊本か?)、男子の王がいる。その長官は狗古智卑狗であり、(この國は)女王國に隷属していない。

帯方郡より女王国に至るまでは一万二千余里である。男子は大人、子供の区別無く皆体に入れ墨をしている。昔から、この國の使者が中国に詣で来た時、皆自ら大夫と称している。夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪入れ墨を以て蛟竜(こうりゅう:サメの類)の害を避けたと言うが、今倭人も、好んで潜水して魚貝類を捕える。その時入れ墨が大魚・水禽を寄せ付けないまじないとなっていたが、今では飾りとなってしまっている。国々によって各々入れ墨が異っている。

色々な職種、大人・子供の間で、尊卑の差がある。(倭の)方角・方向を言うならば、ちょうど会稽の東治(とうや)の東にあたる。その風俗は淫らではない。男子は皆裸同然で、木緜(もめん)を頭にかけ、衣はひもで結んで縛り縫っていない。婦人は髪を束ね、衣は単被(中国の衣服?)のようで、真ん中の穴をあけ頭から被ってこれを着ている。

禾稲 (かとう:稲)・紵麻(ちょま:麻)を種(う)え、蚕桑(蚕)を育てて糸を紡ぎ、細紵(さいちょ:?)・ケン緜(けんめん:絹?)を産出している。この地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 (カササギ)はいない。

兵は矛・楯・木弓を用いている。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢の先は鉄鏃( てつぞく)だったり骨鏃である。

國の様子は、タン耳(たんじ)・朱崖 と同じである。倭の地は温暖、年中生野菜を食べている。皆裸足である。住居には部屋があり、父母 兄弟、寝室が別である。朱丹をその身体に塗っているのは、中国で粉を(体に)塗るのと同じである。食事は器を用い手で食べる。

人の死は、お棺におさめるが槨(かく)はなく、土に埋めて冢(つか)を作る。人が死ぬと十余日喪に服す、喪中の間肉を食べず、喪主は哭泣して、他人は歌い舞い踊って飲酒する。葬った後は、家の者は水中で澡浴(もくよく)し、練沐(みそぎ)のようにする。

海を渡って中国に詣でる時は、いつも一人の人間が、頭をとかず、蚤虱をとらず、衣服は汚れたままで、肉を食べず、婦人を近づけず、喪中の人のようにする。これを名づけて持衰(じさい)と言う。もし先行きがよければこの者の行いが善であって財物を与える。もし疾病や暴風雨にでも遭えば、すなわちこれを殺す。その持衰が謹まなかったから、と言うのである。

(この地では)真珠・青玉を生産する。山には丹がある。植物はダン・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・ボウ・櫪・投・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香がある。竹は篠・カン・桃支がある。薑(きょう)・橘・山椒・茗荷はあるが、食べておいしいのを知らない。大猿・黒雉がいる。

各行事で心配事があれば、 骨を灼いて占いその吉凶を求める。先ず占う事柄を口に出して唱える。そのやり方は令亀の法のようで、焼けたヒビの入り具合を見て運勢を占う。会合の場では父子男女別なし。人々は酒を嗜(たしな)む。

大人を敬う時のやりかたは、柏手をうって踞(うずくま)り拝む。人の寿命長く、百年、或いは八、九十年である。

大人は皆四人か五人の妻を持ち、下戸も二、三人持っている。婦人は淫行を行わず、嫉妬せず盗みもしないので訴訟は少ない。法を犯した者は、軽い者はその妻子を没収し、重い者はその一族も皆殺してしまう。高貴な者も一般の者もそれぞれ身分差がある。臣は主に服従している。

租税を徴収し、貯蔵庫(邸閣)がある。国々には市が立っている。色々な物を交易しており、大倭という役人(役所?)がこれを監督している。女王國より北の地方は、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させている。諸国では、これを畏れている。常に伊都国にいて統率している。国中に警備の者達がいる。女王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時、又郡(帯方郡)の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて(女王の所へ)届けさせる。

身分が低い者(下戸)が高い人(大人)と道路で出会ったとき、後ずさりして脇によけ蹲(うずくま)ったり、あるいは跪(ひざまず)いて、恭順の意を表す。応対には、噫(あい:はい:おう?)と言う。わかりました、という意味のようである。

この国は元々男性の王がいたが、70〜80年の間に倭国は乱れ、数年間争いを繰り返していた。そこで国々は共同で一女子を王として擁立した。名づけて卑弥呼という。鬼道にたけており、大衆を幻惑している。齢はとっているか、夫はおらず、弟がいる。(卑弥呼を)佐(たす)けて国を治めている。王となってからは、その姿を見た者は少なく、婢千人が身の回りの世話をしている。

男が一人いて、(卑弥呼の)給仕をし、言葉を取り次ぐため居処に出入りしている。(ここには)宮室・ 楼観・城柵が設けられていて、常に警備の者が守っている。

女王国の東へ海を渡る事千余里で、また国がある。皆倭人である。更に侏儒国(しゅじゅこく)がその南にある。この國は皆身長が三、四尺(90cm〜120cm)である。女王国を去る事、四千余里である。またその東南に裸国・黒歯国があるが、船行一 年で到達する。倭の地は、海の中に島として存在しており、地続きだったり島になったりいる。周囲は五千余里程である。

景初二年(238年)六月に、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献したいと要請した。太守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。その年(238年?)の12月、以下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし貴方の大夫難升米・次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉って到着した。

貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の表れであり、うれしく思う。今貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、それを人々に示し、人民を服従させなさい。貴方の使者難升米・牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする。今、絳地(こうち)、交竜錦五匹〔臣の松之(しょうし)は,絳地は絳テイの誤りと言う。漢の文帝は皀衣(そ うい)を著(き)ている、これを弋テイ(よくてい)と言う、これである。この字(テイ)は、魏朝の失(あやま)ちではなく、おそらく写した者の誤りであろう〕絳地スウ粟ケイ(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張、茜絳 (せんこう:茜色の紡ぎ)五十匹、紺青五十匹を以て、汝が献じた贈り物に答える。また特に汝に紺地の句文錦三匹、細班華ケイ(さいはんかけい:模様を細かく斑に表した織物)五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を授け、全て装封して難升米・牛利に託してある。(彼らが)還ってきたら目録と照らし会わせ、全てを貴方の国中の人に示して、国家(魏)が貴方に好印象(哀れ)をもっている事を知らしめなさい。だから、(魏は)鄭重に貴方に好物を授けるのである」と。

元始元年(240年)、(魏は)太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を派遣して、詔書・印綬を捧げ持って、倭国を訪問し、倭王に拝謁し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を授けた。倭王は、使に答えて上表し謝意を示した。その四年(243年)、倭王も使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を(魏へ)派遣し、生口・倭錦(わきん)・絳青ケン(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布・丹・木フ・短弓 矢を献上した。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を授かった(壱拝す)。

その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。

その八年(247年)、太守王キ官に到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為(つ く)って戦いを激励した(告喩す)。

卑弥呼以て死す。大きな冢(つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、国中の混乱は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女壹与(とよ)年十三才を擁立して女王となし、国中が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。壹与は、倭の大夫率善中郎掖邪狗等二十人を派遣して、政等が(魏へ)還るのを見送らせた。

そして、臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・ 青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を献上した。

3 倭王武の上表文

『自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不徨寧処、東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国』( 宋書倭人伝、478年)

4 『隋書』倭国伝より

西暦600年、倭王あり、姓はアメ、名はタリシヒコ、オホキミと号す。使いを遣わして隋の都 長安に詣る。隋の高祖文帝、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出て政を聴き跏趺(かふ)して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと」。高祖曰く、「これ大いに義理なし」と。ここに於いて訓(おし)えて之を改めしむ。王の妻はキミと号す。後宮に女六、七百人あり。太子を名づけてワカミタフリとなす。

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩■弥、遣使詣闕、上令所司訪其風俗使者言、倭王以天為兄、以日為弟、天未明時、出聴政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟、高祖曰、此大無義理、於是訓令改之、王妻号■弥、後宮有女六七百人、名太子為利歌弥多弗利(*■は「鶏」の右が「隹」)

5 歎異抄

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

6 親鸞「愚禿悲嘆述懐和讃」より

   かなしきかなや道俗の
   良時吉日えらばしめ
   天神地祇をあがめつつ
   卜占祭祀つととす

   浄土真宗に帰すれども
   真実の心はありがたし
   虚仮不実のわがみにて
   清浄の心もさらになし

7 日蓮の言葉

「日本国にはただ法華経の名のみあって、これを身に習得した人は一人もいません。だれを法華経の行者と言いますか。寺を焼いて流罪になる僧侶は数多く、公家や武家にへつらって憎まれる高僧は沢山います。このような人たちを法華経の行者と呼べるでしょうか。法華経の言葉が空しくなければ、三種類の敵が国中にあふれています。もし法華経の行者がいなければ、聖典の言葉が破れます。これは何としたことでしょうか。いったいだれが法華経のゆえに、ののしられ、あざけられたでしょうか。いったいどの僧が法華経のゆえに、刀でおそわれたでしょうか。法華経のゆえに公家や武家に忠告した僧がいるでしょうか。法華経のゆえに、何度も流罪にされた僧はどこにいますか。日蓮のほかにこのような人は日本にいません。天が日蓮を守らなかったために、日蓮は法華経の行者といえないのでしょうか。・・・ 私は日本の柱となります、私は日本の目となります、私は日本の大船となります、と立てた誓いを破りません。」 (開目鈔)

 

8 無教会とは

無教会は日本における最も良く知られたキリスト教運動の一つである。[1] 西洋教派主義の反作用として内村鑑三(1861ー1930)によって始められたこの小さな運動(信仰者約3万5千人)は日本におけるキリスト教運動の最も特ちょう的なものと考えられている。無教会はサクラメント、ミサ、職業牧師、教会建築、教派本部あるいは会員登録表を持たず、あらゆる形式的キリスト教の制度を拒否する。代わりに無教会は伝統的な先生−弟子関係を中心とした独立的な聖書研究グループを基本としている。教師は聖書の制度的訓練を受けず、啓示を受けたときに一つのグループを形成する。したがって、グループはその教師が死んだり引退したときに解散する。(「無教会の平和主義」カルロ・カルダローラ)

9 内村鑑三の無教会論

神の造られた宇宙であります、天然であります、これが私たち無教会信者のこの世における教会であります。その天井は青空であります。その板に星がちりばめてあります。その床は青い野であります。そのたたみは色々の花であります。その楽器は松のこずえであります。その演奏者は小鳥であります。その高壇は山の高根でありまして、その説教師は神さまご自身であります。これが私たち無教会信者の教会であります。(1901年3月「無教会論」)